毎日の体験を記す場所

東京新聞(中日新聞東京本社)社会部デスクの小川慎一です。原発取材班にいました。取り調べは全面可視化、検察官は証拠リストを開示すべき。金に余裕があるならクール寄付。"All sorrows can be borne if you put them into a story or tell a story about them." Isak Dinesen(どんな悲しみも、それを物語にするか、それについて物語るならば、耐えられる)

「つかみ」が大事

 記事のリードはしっかり書くべきだ、と繰り返し主張している(リードが大事ということばかり書いていて、ブログの見出しが思い付かなくなってきた・・・)。中日新聞満州陶磁器、職人おきざり 終戦時の混乱証言:愛知」。こういう話も好きなので読んだのだが、かなり分かりにくい。この記事のリード。

 戦前、瀬戸市の陶磁器職人らによって旧満州国中国東北部)に設立され、和食器を生産していた「満州陶磁器株式会社(満陶)」。現在は記録も残ってないが、旧満州国の建国十周年を記念し、現地で作られた磁器の杯が瀬戸市内で発見されたことを伝えた昨年十一月の本紙記事をきっかけに、当時社員だった父とともに現地で暮らしていた男性が、生活ぶりや終戦時の混乱などを満州陶磁器を研究している女性らに証言した。

  10字詰めで20行ある。全体的に長いし、1文も長い。「現在は記録も残ってないが」というのは、これは満陶の記録そのものを指すんだろうか。それと「本紙記事をきっかけに」というのはリードに必要ない。経緯は本文にかけばいい。リードは、男性の証言で面白かったことか、ざっくりとした証言内容を書いた方が良い。私なら、こんな感じにしてみる。

直し版> 戦前、瀬戸市の陶磁器職人らが旧満州国中国東北部)に設立し、和食器を生産していた「満州陶磁器株式会社(満陶)」。社員だった父と現地で暮らしていた瀬戸市出身で美浜町奥田の陶芸家加藤嘉明さん(79)が、当時の生活や終戦時の混乱を語った。満陶の記録は残っていないため、貴重な証言だ。

 元記事の第3、4段落は、陶芸家の男性が証言した経緯が書いてある。

 証言したのは、瀬戸市出身で美浜町奥田の陶芸家加藤嘉明さん(79)。

 磁器の杯を夫の実家で見つけた瀬戸市緑町の元小学校教諭加藤昭子さん(64)に連絡し、嘉明さん方を訪れた昭子さんと、父親が満陶の工場責任者だった加藤祐司さん(79)=同市安戸町=に体験を語った。

 昭子さんが研究者のようなのだが、ここははっきりと書いてほしい。リードにあった本紙記事の話も含めて、以下のようにして、この記事の最後の方に置いた方が良いと思う(ただ、うまく書き直せなかった。無念。。。)

直し版> 嘉明さんに話を聞いたのは、満陶を研究する元小学校教諭加藤昭子さん(64)と、父親が満陶の工場責任者だった加藤祐司さん(79)。昨年十一月、昭子さんが旧満州国の建国十周年を記念して現地で作られた磁器の杯を、瀬戸市内の夫の実家で見つけたことを本紙が報じた。これをきっかけに、嘉明さんが昭子さんに連絡した。

 本文も長い。リードを含めて10字詰めで110行ぐらいある。こういう記事では長いことが必ずしも悪いとは思わないが、それにしても長い。100行以内に収めたい。

 ということで、97行にしてみた。ただ削ってみて分かったが、内容が物足りない。逃げた兵舎がもぬけの殻だった状況を、この陶芸家や父、ほかの職員はどう思い、何を話したのか。そこが知りたかった。

 試しに全文を直した。以下の通り。

直し版全文> 戦前、瀬戸市の陶磁器職人らが旧満州国中国東北部)に設立し、和食器を生産していた「満州陶磁器株式会社(満陶)」。社員だった父と現地で暮らしていた瀬戸市出身で美浜町奥田の陶芸家加藤嘉明さん(79)が、当時の生活や終戦時の混乱を語った。満陶の記録は残っていないため、貴重な証言だ。

 満陶は一九四一(昭和十六)~四五年、現在の吉林省九台市で操業。瀬戸焼の職人と中国人が瀬戸から運んだろくろを使い、日本から移住してきた人向けの食器を生産した。

 嘉明さんは小学校二年だった四一年、陶磁器人形作りの名人で満陶の立ち上げに関わっていた父・登さんと旧満州に渡った。当時、母親と姉三人は結核で亡くなっていた。

 満陶の工場内には瀬戸の職人が二十~三十人いて、二百人ほどの中国人に技術を指導する忙しい雰囲気。れんが造りの社宅は暖かく、食料にも不自由しなかった。三十人ほどの日本人学校の児童生徒は、中国人の子どもたちと釣りやスケートを楽しむこともあった。

 だが四五年八月十五日、日本の敗戦が伝わると穏やかな暮らしが暗転した。日本人は四キロほど離れた関東軍の兵舎に逃げたが、軍人らは既にいなかった。中国人が農機具を手に襲ってきたため、十歳だった嘉明さんは手りゅう弾を手に兵舎内で息をひそめた。その後、ソ連軍に日本人は物を全て奪われた。

 半年後、嘉明さんらは兵舎から満陶に戻ったが立場は一転。中国人が社宅に住み、日本人は工場で使われた。嘉明さんは四六年九月、登さんもその一年後に帰国。登さんは岐阜県土岐市で陶磁器産業に携わり、七七年に七十三歳で亡くなった。

 嘉明さんは「何もないところに磁器用の工場を一から造ることは、相当大変だったと思う」と振り返った。

 嘉明さんに話を聞いたのは、満陶を研究する元小学校教諭加藤昭子さん(64)と、父親が満陶の工場責任者だった加藤祐司さん(79)。昨年十一月、昭子さんが旧満州国の建国十周年を記念して現地で作られた磁器の杯を、瀬戸市内の夫の実家で見つけたことを本紙が報じた。これをきっかけに、嘉明さんが昭子さんに連絡した。

 昭子さんは「終戦の日まで生産を続け、軍人と違って何も知らされず悲惨な運命をたどった。満陶設立は国策でもあったが、職人たちは置き去りにされたんだと感じただろう」としみじみ語った。