毎日の体験を記す場所

東京新聞(中日新聞東京本社)社会部デスクの小川慎一です。原発取材班にいました。取り調べは全面可視化、検察官は証拠リストを開示すべき。金に余裕があるならクール寄付。"All sorrows can be borne if you put them into a story or tell a story about them." Isak Dinesen(どんな悲しみも、それを物語にするか、それについて物語るならば、耐えられる)

ハンセン病資料館

 東京都東村山市国立ハンセン病資料館に行ってきた。館内は残念ながら写真撮影できず。治療だから、法に基づいているから、そんな理由で、隔離されて不自由を強いられた人がいて、生まれることさえ許されなかった命がある。そういうことを東京で、しかも入館無料で知ることができるのだから、これは行かなきゃ損というものだ。

 展示されていた「中学生・夏子の卒業式答辞」という文章から目が離せなかった。館内にある図書室で出典元の鈴木敏子『「らい学級の記録」再考』(2004、学文社)を見つけたので、その答辞部分をコピーした。夏子は収容先のハンセン病療養所内で10年近くを過ごしたという。感じたことを、思いを、わずかにでも言葉に残しておくことは、後に思いもしない誰かの元に届くことがある。夏子は卒業式で、どんな声で、どんな抑揚で、この答辞を読んだのだろう。答辞全文は以下の通りである。

 小学一年から、この中学を卒業する九年間、私には長いようにも思えるし、短くも感じる。こんな気持はだれでももつ平凡なものかもしれない。わたしもその当たりまえの気持ちにいまなろうとしているのだ。
 また一方では、自分が卒業するなぞとは思えず、わたしとは別のわたしが卒業してゆくような気持だ。これからわたしはどうしてゆけばよいのかという不安だけが、強い実感としていまわたしの胸の中にある。みんなの胸は、夢や希望でふくらでんいることだろう。わたしには夢もなく、希望もない。ただ不安だけが雲のようにわき上がってくるだけなのだ。
 わたしにも夢はあった。幼いころ、それもいま思うとバカバカしくなるような夢が。でもあのころのわたしにとって、その夢はわたしを慰めてくれる唯一つの宝物でもあった。
 わたしは小さい時病気になって、療養にはいったため、友だちには恵まれていない。療養所の数少ない子どもの中でも一ばん小さかったわたしは、ひとりぼっちの時が多かった。みんなが学校にいったあと、つまらないので、踊りが好きだったわたしは、いたずらにひとりで踊ったりして、みんなが学校から帰ってくるのを待ったりしたものだった。
 そんなわたしが小学一年生になったある日、療養所で、バレエ映画「白鳥の湖」が上映された。わたしのあこがれていたバレエが、本の中でしか見ることのできなかったバレエが、映画でみることができる、わたしの心は弾んだ。
 映画「白鳥の湖」は、静かな森のシーンからはじまった。王女オデットが魔法にかけられ、白鳥となってしまう。お付きの人もやはり王女と同じ姿にされてしまう話が、美しい森と湖の背景の中で、柔らかい音楽にのって、人のからだとは思えぬ優雅な、流れるような踊りの表現で展開されてゆく。まるでおとぎの国にでもいるような気持だ。この映画が、いつまでもいつまでもつづいてくれたら、とどんなに思ったことだろう。
 場面は変わり、話は進んで、やがて最後の場面、王子の強い愛情によって、王女たちの魔法はとけ、幸福そうな王子と王女の踊りで幕は下りた。映画が終ってもわたしの心はたかぶっていた。「白鳥の湖」の一つ一つのシーンが眼に焼きついてしまって、いつまでも消えない。それは八年をすぎた今でも思い出すことができる。あの時のわたしのたかぶった気持がよみがってくるように。
 わたしも舞台に立って踊ってみたい。その時のわたしには、舞台が人間界とは別な世界のように思えた。そこには何のえんりょも、気づまりもないにちがいない。そんな所で思う存分自分を吐き出してみたい。泉のほとりであの王子様と王女様がいっしょに踊るのは、何とすてきだろう-わたしはそんな夢のようなことを描きはじめた。おとなから「バレリーナになるには、なみたいていのことではないよ」と聞かされたが、わたしは、苦労を重ねるのだから、あれほど感動させるのだ、と思い、よけい憧れてしまった。
 それから退園して、一年足らずで、ふたたび発病したわたしは、バレリーナになるなんて、とんでもない夢だと気づき出した。こんな夢を描いている自分がおかしくなってきた。いつ退園できるかわからない病気。もし退園しても、今のわたしのようにまた入園するかもしれないのに、なんでバレリーナになれる可能性があろう。たとえ夢であろうと、バレリーナになった自分を想像している自分がいやになってきた。それからそんなバレリーナへの夢は、わたしの中から消えていった。今ではバレエをみても、美しいな、きれいだな、と思うだけで、自分が王女様になってしまうようなことはない。あの頃はむじゃきだったなァと、ひとり思い出し笑いをする。
 今はだからわたしには夢がない。だがわたしは、自分の生きがいのある人生がほしい。生きている、ということを自分自身で味わってみたい。そして社会人として精いっぱい働いてみたいのだ。療養所のように垣根のない自由な世界で、自分が生きていることを確かめてみたいのだ。愛生園の高校なぞには行きたくはない。もうこれ以上囲いのある生活はしたくない。できるものなら早く退園し、この十年の空白を埋めたい。
 このわたしの願いを夢といえるなら、わたしは夢を持っているのだ。わたしはその夢に対してすべてを賭けよう。その夢を自分の手にとってみることができるように。この夢こそはたいせつに扱いたい-。(鈴木敏子『「らい学級の記録」再考』p.106-109)

 

「らい学級の記録」再考

「らい学級の記録」再考